甘いの以外は、好物である。甘いの以外のすべてに、躊躇はないと言ってもいいかもしれない。オートマチックのように、出てきたら食べる。こないだ食べシャコが意外とおいしくなかったけど、たぶんそのくらいだ。でも出されればまた食べるだろう。
ある日、ある偏食家に言われた。
「おまえは本当はなんでもおいしく食べてるんじゃなくて、味が分からないだけなんだよ」
新しかった。
目が覚めるようだった。
斬新すぎて、否定する理由がまったく思いつかなかった。チラとすら考えたこともなかったことだ。
それからも、そのことはずっと僕の中に残った。
それはたぶん、画期的な意見だったからではなく、あらゆる物事にあてはめることのできる訓辞のようなものに近かったからかもしれない。
僕たちはみんな、自らの主体性によって、感想を持つ。本を読んだあとの読後感は、本を読んだ当事者のものだ。お肉を食べておいしかったら、その「おいしかった感」は、食べた本人のものだ。
でももしそれがミリグラムとかリットルとか、絶対的な値であらわすことができたとしたら、僕の食べたお肉のおいしさは、なにリットルなのだろう。
広大な平野に僕たちの味わったおいしさバロメータが、僕グラフのようににょきにょきと林立するとしたら、僕のおいしさはどのくらいの高さまで伸びているのだろう。
ひょっとしたら野菜嫌いだけどお肉がなによりも好物みたいなひとが味わうお肉のおいしさは、群を抜いているのかもしれない。際立つように、相対的に、だから野菜が嫌いで、食べたくないのだ。
僕はまんべんない。だからどれもこれもそこそこの高さで、こじんまりとまとまっているのかもしれない。ひょっとしたら、お肉好きの人間の味わったおいしさ感を一度経験したら、自分の舌にがっかりするのかもしれない。
主観でしか測れないことこそ、丁寧に客観視するように努力するべきだ。
これはひとつの美学だ。
それを、その偏食家はすでに実践していたのかもしれない。だからそんな言葉が出てきたのだ。少なくとも、味を、客観視していたのかもしれない。
相当なことだ。
どんな女の子でも、ひとつでもいいところを見つけてすばやく褒める。これも美学だ。哲学の端っこにはいっていてもいいと思う。少なくとも、紳士だ。僕もそれを追いかけてきた。でも中には女の子のことを褒めるどころか、ブスだのデブだのケチョンケチョンに言うひともいる。
なんだ、話が肉から女に飛んだのかというと、そうではない。
ケチョンケチョンに言うひとでも褒めてしまう女の子というのは、そのひとにとっての「輝き度数」みたいなものは、なんリットルなのか。ひょっとしたら、まんべんなく褒めてる男の味わっている胸の高鳴りよりも、そういうひとの方が60デシベルくらいは高いのかもしれない。
こうして、「おまえは本当はなんでもおいしく食べてるんじゃなくて、味が分からないだけなんだよ」的訓戒は、あらゆる事象に置換され、僕をはたと考えさせる。
そして愚鈍な僕はいつまでも客観性について掌握しきれないまま、高い代償として、公平性を支払っているのかもしれない。
すべては暗喩だ。たとえば溜め息で円周率を求めるように。